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言葉は色々な意味を持ち、時には正しく、時には現実を私達に見せる。
言語、言葉は人と話すために必要な手段だ。
言葉は一種変化を繰り返している。今も尚、繰り返し使われている言葉こそ、人から人へと発する際に変わる。
言葉で表現が出来る者は多数存在する。歌?文章?良いや。話すことただそれだけさ。
言葉は表にも裏にも無数に道があり、当てはなること自体許されない。
だからこそ、言葉さえも交わさない。心で相手とリンクする事が出来れば、人は幸せ者と言えるだろう。
言葉は言語は誰かと話す為の手段。
言葉は良く言えば、残酷を見せ、幸せも見せる。
人に言葉を発した瞬間に意味は固定され、形ではないが、周波数に乗り人に言葉を送っている。
直接会話している際に、意味に相違が出来てしまえば、その場で修正が出来る。
文章、テキスト上では理解力、読解力が人並みに必要だ。意味を理解せず、誰にも聞かず、自己理解してしまえば、すれ違う事もあるだろう。
文章の読解力が、高ければ高い程その人の意図が良く理解できる。
その意図は誰かには、伝わるのに誰かには伝わないのが、私は残酷だと思っている。
本の場合は、物語性などが、交わって1人1人の理解を掻き立てるために作られている。
でも、私は違う。誰にでも同じ意図で、言葉で、伝わるように柔らかくすることをしている。(この記事は難しいかも)
言葉は意味が分からなければ、言葉ではなく周波数に乗った音だ。
言語の壁を越えられなければ、意味さえも理解が出来ず、発せられた言葉単体としか意味を見出だせない。
日本人は日本語に特化している。当然だろう。幼い頃から日々日本語を教えられてきたから。
では、他の言語は日本人にとって、どのように聞こえているのだろう?
それは言葉は、意味は、理解できないが、日本語ではない言語が発せられたと脳が認識する。
今は、ネットもあり英語・中国語・ドイツ語・スペイン語など、どの言語で喋っているのかは認識できるだろう。
洋楽では、言葉のニュアンスと雰囲気でカッコいいと日本人は認識している。学習すれば、また違う意味合いになる。
逆に外国人が邦楽を聴けば意味は理解できんが、特徴的な声だ。安心する声だと良いように捉える人も居るだろう。
日本人にとってはここがコンプレックス何です。。でも、外国人にとっては私は好みだと言う人もやっぱり居る。
日本人から日本人でもそれはある。私は人に対してはそんな事考えなくて良いんだよって言うけど、私もコンプレックスはあるし
でも、声だって見た目だって誰かには好みだと好きだと言われているかも知れない。
この考え方を人に言うとポジティブだねって返答が返ってくるけど、最初からこの考え方では無かった。
変えたい。変えたい。と思ったから変えれたし、一度立ち止まり考えたから出てきた思考でもある。
難しいけれど、自分は出来る出来るんだ!と自信を持つことは本当に大切だよ。
コンプレックスが何だ。自分の世界で決めつけているだけで、案外、近く好いてくれている人も居るよ。
私は好きな人以外あまり興味を持たないけど、好きな人がここがコンプレックスって言ったら自身持って!と言うし
私はそこも好いて褒めちぎってしまう。
中には面倒くさいな~って言って離れる人が居るけど、本当に好き?その人に心許している?ちゃんと本質を理解してよ。
そう言っている私はあまのじゃく。でも、1日後に違うんだよって耐えられなくて言ってしまう。面倒くさい子です。
言葉は日々変化をしている。
言葉を良く理解して、日々文章にしていると少し変化しているな。と時々思う。
言葉は固定される事で、意味を見出しているのは分かっている。
でも、人に伝えたら意味も変化してしまうし、捉え方によっては悪くなってしまう。
主語述語どちらもセットでないと、意味は伝わらないし。
時々、自分の中では、分かっていても伝える際に、述語を吹っ飛ばしてしまって、理解できない?え?って言われる時もある。
言葉は何か一部を消してしまったら、伝え忘れてしまったら、違う方向に変化して違う意味になってしまう。
誰かにとっては普通に考えることでも、私は色々と抜けているから難しい。
まあ、その分飛び抜けて何かを構想・行動して、作ることも出来て、究極の先にまだある!って止まる気がない。
普通が欲しい。でも、この感覚が無くなるなら普通は欲しくない。
繰り返し繰り返し使われている言葉も、着眼点すらも視野さえも全部1から作り変えれば変わる。
それを文章にインプットすれば、全部1から作った事に変わりない。組み換えでも作った事に変わりはない!!
変化しているな~と思うことに意味があって。何も考えなければ、それすらも感じられない。
今私出来ているよ!誰よりも私輝いているよ!と思いなさい。全ては意識改革から始めるのです!!
変化が怖い。じゃなくて変化は楽しい事です。
言葉で表現。
表現仕方は、多数存在する。書く?作る?歌う?形に残る物にする?
一番伝わりやすく、かつ人が日常で目に、耳に入るのが、デザイン・音楽。
私が思うに、色が付いているものメロディーが付いている物、全てに言えて、分かりやすく作られている。
人は好き嫌いを一瞬で認識し判断をしている。色合いは見たら分かるし、メロディは出だしで決まる。
だからこそ見たことない。聴いたことがない。ことに人はワクワクをドキドキを感じる。
表現の方法は多い。多いけど、その中で輝けるのは少数。
その比例を言葉は突き抜けていく。言葉は誰にでも許され、正しい表現方法を確立し。誰かの為に使うことが出来る。
でも、言葉だけだと人は形に残らないと言うから、形に残る物を作ってあげると良いよ!
下手くそでも、渡すことに意味があって渡さないことには始まらない。
下手くそーーって笑い合うのが本当の意味で幸せなのかも知れないね。
LINEでも言葉を表現しているんだから、形に囚われていたらもったいない。
何だって何だって良いんだ!出来て当たり前なんて私は言わない。絶対に言わないからやりたいことを表現してね!
自由な発想。表現を私はみたい!誰かの為でも自分の為でも表現したことには変わりない。
自分は頑張った!そう言えるのは精一杯表現をした、貴方だから言えること!良いことです!
言葉は当てはまることを許されていない。
言葉には意味があるのに、無数に何かを秘めている。
心と心が触れ合って通じる物もやっぱり存在して、でも、素直に言葉に出さないといけない事も存在する。
言葉=心では無い。でも、言葉=心でもある。表と裏と言った方が伝わりやすいかな?
本当にその人を理解して、心を開かないと難しい問題でもある。
ただ、素直に言うことも、ふてくされて本当に思っていない事を言葉にするのも優しさが存在する。
言葉は難しい。何かに当てはめると本来の意味を見失ってしまう。
大切な人を失っても、また、もっと大切な人は現れるし。でも、大切な人と心をリンクさせる為には、言葉は必要不可欠で。
その後に、深く深く分かり合えた者同士が言葉の壁を抜け、心で会話ができる。
それでも通じないことはある。その時は言葉がある。文章が、歌がある。
表現することは、その人の事を深く知っていないと出来ないし、作ろうとも思わない。表現は一種の証拠でもある。
だって、作っている最中は、貴方の事をずっと想って作っている訳で、それを考えたら超幸せ者じゃん。
心は触れられないから不安で仕方がない。
でも、直接言われた言葉を信じるのではなく、意図を理解してあげるのも、心の底から許せた相手だからだろう。
言葉は、心は、いつも当てはまる事を知らない。
まとめ
今回は言葉について、深く私が思っている事を書いて見ました。
言葉は誰の物でもあり、言葉を使って皆表現をしている。
大切な人に、家族に、友達に、先生に、同期に、上司に自分を表現している。
言葉はコミニュケーション以上に大切な何かを秘めている。
だから、囚われる事も、当てはまる事も、許されていない。許されていないから私達は自由に言葉を使える。表現が出来る。
心をあげたいと想った人に言葉は、言語は、必要ではない。
でも、不安で不安で泣きそうになっていたら言葉を使ってください。絶対に使ってください。
必要なのは愛情だ。安心だ。信じる心。ある程度許してあげる心だ。
誰が違うと言っても変わらない。変えられる程、安々と定まった訳ではない。
- 言葉は、やはり大切だ。
- 言葉は、大切な人に想いを精一杯伝える時に使いなさい。
- 言葉で失ったら、言葉でもっと大切な人を見つけ出しなさい。