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言葉を再定義することで、今を抜け出すことも可能だ。
人間は、一つの物事に対して意味は一つのみだと、勘違いしている。
その違いを考えたくない。無駄だと無意識に判断しているからだ。
一度、意味を定義すれば再定義は不必要なのか?
この世は物事に対して二つ答えがあるのではないか?『全体的。部分的。』
一瞬でも意味が違うのではないか?と過れば検索すればいい。意味を正確に!
物事に対して意味は一つ?
私達はある程度意味を脳内で完結させている。
完結させる事で、意味は一つと狭めてしまう。という悪影響もある。
- それは考える事を放棄し、元々脳内に入っている答えが正しいと勘違いしているのではないか?
- 一度正しい答えを定義すれば、全てが正しい。と思い込んでいるのではないか?
- 意味は簡単に書き換わらない。と思い込んでいるのではないか?
私達は、物事を実際に体験したり。何か文章を見て知識に加える。
実体験。と教科書を見るだけでは、一種の相違が出てしまうのは当たり前な事なのです。。
言ってしまえば、意味は無数に存在する。
人間は何かに対して、絶対的な存在と、正しさを求める。
- 何故だと思う?
それは間違えたら恥をかく。と隔離された教室で習ったからだ。
人間的な要素では、プライドだ。
そういった環境に居ると何が起きるか。素直に分からないと言えない。
何が良くて、何が悪いか。を考えられなくなった時、もう毒されている。
毒されてしまう前に意思をしっかり持たないといけない。
私は此処に居る!と強く意思を突き通さないといけない。
誰かの圧によって、正しくないことを間違えだ。と言えない人も存在する。
言えなくても良い。でも、意思だけは持って欲しい。
時に、正しい物事が一瞬の印象で正しいとは言えなくなってしまう。そんな世の中だから、
誰かに流されたり・自分自身の評価、評判を気にするようになる。
それは子供で、大人でも同じだ。
- 正しい=正しいは。正しいとは限らない。
- 正しい=間違えは。間違えとは限らない。
間違えでも良いからその人の意見を聞きたい。と思う私です。
だって、考え方が違うことは貴重だよ。
でも、間違えの考え方を突き通すのは自己中心的だ。
分かりやすく、誰でも適応しやすい様に出来るのなら、例え間違えでも突き通して良い。
物事は色々な要素が組み合わされ出来ている。
言葉を変えれば、噛み合うなら手順を変えたって良いという事です。
長々と書いてしまったけど、繋ぎ合わせる事、人と人が手を繋ぐ事が一番大切です。
一度覚えた答えが一生同じとは限らない。
幼い頃に意味を教わり、その時に意味を定義したとしても私達は忘れる。
だから、再定義が必要だ。考え直す時間が必要だ。
正直、言葉の意味が変わる事はほとんどない。
でも、新しい要素、意味が増えているかも知れない。
先入観で、考えが固定されるのはもったいない。
例えば、人間性が凄く悪くて、でも、良い作品を作っている。
そういう人が居るかも知れない。人間性皆無だからといって良い作品まで否定しないで欲しい。
印象によって私達が様々な苦しみを受けていることは確かだ。
ただ、それを受け入れることも確かに必要だ。
受け入れることで、チャンスに変えられることも確かだ。
私はそもそもの考えに囚われることで、失う物が絶対的に存在する事を知っている。
それは物事でも、人に対しても存在する。
だから、私は再定義し直すという作業をしないといけない。
しなければ、過去のありとあらゆる事を思い出し、前と同じ事を繰り返すハメになる。
それを阻止する。意味でも、間違えてしまった事は肝に銘じ。
それ以外は真っ白にする。とまでは行かなくても新しい人と新しく思い出を作ればいい。
そして大切にして、離れず思い出を語り合えれば理想図だよ。
- 不特定な過信に、定義に。何もせずに確信的が降ってくる訳じゃない。
不特定な、過信を、定義を、確信的にすることは至って簡単だ。それは何かを見て新しい知識を増やすことだ。
でも、何も考えないで、増える訳じゃない。貴方が知識を増やしたいと思うから増やせるだけ。
その過程にほとんどの人が気づいていない。
そもそも何のために増やすんだ?から抜け出せない人が多い。
それは会社に居れば、仕事が自動的に回ってくる。だから、その考えが抜けている。
そのシステムに従順になり過ぎているんだ。力を抜いて色々と考えてみれば自ずと分かります。
だから、再定義し直すことで、今から、糸も簡単に囚われている物から抜け出すことも出来る。
でも、いくら再定義し直しても抜け出せない物も存在する。
それを私が良く知っている。
物事には定義、意味が二つ存在する。
私は言葉には必ず二つ意味が存在すると思っています。
- それは全体的な、通常に使われる言葉。
- それは部分的な、鮮明に使う言葉。
全体的な言葉は会話をするために使用する。
でも、私は、時々部分的な言葉を使って、日本語が可笑しいと言われる。
例え、全体的に言えば、『物が壊れた。』(普通では全体的。)
でも、部分的に言えば、『物が割れた。傷が入った。』(鮮明的に映し出すのは部分的。)
人間は1つの物事に対して1つしか当てはめない。(一言で認識しやすい方が使われる。)
何かを作る側は視点をコロコロ変えるから、変えたまま話すと違いが現れる。だから、日本語が可笑しいと思われてしまうのは仕方ない。
可笑しい訳ではないけれど、元々の考え方の部分が違う。(構築の仕方が違う)
考えて話さないと、私は物語みたいに話してしまう。
だから、伝える時は、短くする。
文章だったり書く時は長く鮮明にしている。
その違いに時々惑わされるから意識をしっかり持つようにしている。
普通が全体的なら、私は部分的が普通です。
物事には見方が様々あり、上、下、右、左、その見方が普通の人とは多分違う。
普通の人は無意識に全部無駄と判断し、考えを拒絶している。
私はその一つ一つに目を向けているから、考えが絶えない。
その代わり視点、考えを鮮明に言葉に出来る。
私のように作ることに最適化すると現実的に失う物があります。
安易にこの考え方に手を出してしまうと直すまで時間を要します笑
何かに執着し、飛び抜けるということは今まで、バランスを取っていたものが
デコボコになって元に戻せなくなる。
憧れる程度にするか、飛ぶ抜けるか、中途半端は毒でしか無い。
意味が曖昧だと思えば検索すればいい。
私は定義、意味が違うのではないか?と過れば。
現代社会のツール、スマホで検索をします。だって、一瞬で意味が分かるから。
情報を正確に手に入れると同時に疑いもしなければならない。
検索したからといって全部が正確ではないから、自ら意味を理解し情報を手に入れる。
忘れっぽい自分はこの時代に生まれて助かっている。
実際に、私は曖昧な言葉があればすぐに検索して、知識に加えている。
意味が分からないのに書くことは出来ない。
それと、この言葉の意味、間違っていないか?の確認を込めて検索もしている。
検索することは無駄ではない。分からないから検索する。これが一番効率がいい。
自らの知識を頼ることもいいけど、秒で出てくる検索には勝てない。
これも再定義する意味に入っています!
かっこ悪いとかどうでもいい。正確な事が知りたい。
情報は曖昧ではいけない。曖昧で良いのは物語のみでいい。(考えることが正しいから!)
まとめ
今回は再定義について書いてみました。
様々な出来事に意味は、定義は付き物です。時にその正しさ、意味は本当なのか?を考えて見るもの良いですよ。
でも、意味は様々あるので、一つに囚われないでくださいね。
自分が良い方、正しいと思った方に行けば良いんです。
的外れだろうと意味に沿って居れば良いんです。
自分が違うな。って思えば再定義し直せば良いんです!知識が刺激され脳が活発化出来るので良いんです!
自らの判断で何事も変えられるので、頑張って!
再定義は私にとって捨てる事より増やすことだ。