やらないことも悪い。でも、過度にやり過ぎることも悪になってしまう。

B!

目次

この世の中にやり過ぎ厳禁という言葉が少なからず存在する。

運動にも、努力にも、ゲームにも、恋愛にもやり過ぎると慣れたり、体自体に負担が掛かってしまうことだってある。

頑張れば頑張るほど、精神的に来てしまうことも、何かが麻痺してしまうこともあるだろう。

何事にも適度な範囲でこなすことも大事にすべきなのだ。

人間の体は、心は案外ヤワに出来ている。だから、睡眠も食事もしっかりしないと具合が悪くなってしまう。

やらないことはもっと悪いのに、やり過ぎることもこの世の中では悪いことになってしまう。

やり過ぎると色々な事に影響が出てしまう。

何事にもやり過ぎはダメだと聞いたことがある。

そもそもどの段階で、やり過ぎで、過度なのか、私には分からない。

やらないのならやったほうがマシだと思ってしまう私だからだ。

 

運動、努力、仕事、ゲーム、恋愛。

日常には色々な事に熱中する機会がある。

  • やり過ぎれば身を滅ぼす事もあるだろう。
  • やり過ぎれば成功する事もあるだろう。

私達にとって、人間にとって、やり過ぎの目安はどこにあるのだろうか?

体が疲れたら?気持ちが向かなくなったら?時間が来たら?

その違いによって、困惑することもあるだろう。

ただ、自分と他人は異なる者だ。

他人の平均値を目安にすることでも無いだろう。

 

自分がその平均値を知らなければ、当然の様に自分自身で滅ぼすことだってある。

だからこそ、自分で自分自身を良く知らなければならない。

  • 今日は少しテンションが低いから抑えめにしよう。
  • 今日は気持ちの整理が上手く出来ていないから気分転換をしよう。

自分を見つめ直す時間も必要ではある。ただ、悲しい時に苦しんでも変わる物も変わらない。

正解が出ない物に真正面から突っ込んでも火傷をするだけだから、

暗くても、悲しくても、気晴らしにどこかに行けば気分は変わる!

消えなくても、考えてしまっても、それはそれで良い。

同じ場所に居ても現状は変わらないから、外に出れなくても外に出る準備をすればいい。

気持ちが落ちている時は、やる気が出なくても、一時出てしまえば元気は戻ってくるさ!

 

これは色んな事で言えるのだけど。

慣れて良い時と慣れてはいけない時がある。

仕事なら沢山の作業を何度も繰り返すから慣れれば効率も良くなって良いと思う!

でも、慣れていけない部分の方がより重要な事も数多くあって。

  • 自分の体だからと粗末に扱ってはいけない。
  • 辛さに、苦しさに慣れてしまってはいけない。
  • 誰かの優しさに慣れてしまってはいけない。
  • 誰かの為だから、自分は何も望まない。それが普通になってしまってはいけない。

少なからず慣れるということは何かを失う。

その代わりに補われる物も確かにある。ただ、必ず補われるとは限らない。

その違いを明確にしないといけない。

 

しないといけないことは、沢山存在する。それを大事に!

頑張れば良いってもんじゃない。

頑張ることは正義。そんな訳無い。

むしろ頑張らずに頑張ればいい!と私は思う。

何かを続けているということは頑張っている証拠でもあり。

何かを始めようと決心した時も頑張っている証拠だと私は思う。

 

頑張るってなんだろうね?

頑張っている顔さえ作ればいいのかな?愛想笑いと同じなのかな?

きっと違くて頑張るっていうことは何かしらの証拠が存在している。

例えば他人の評価を受けた時に頑張ったんだ!と自覚したり

何かしらの作品を作った後に解き放される気持ちを感じたら、それは頑張った。

 

頑張るは、気持ちを、決心を強くする行為。

頑張ったは、達成感の高鳴り、何かしらの重みが瞬時に消える。

 

誰かを応援して、誰かに頑張れと声を掛けたとしても

相手は頑張らなくてはいけない、だから、無理をするという事では無くて

貴方の頑張りをしっかり見ているから!

今まで通りその力を発揮してね!

他人からの頑張れはきっと貴方なら絶対に出来る。と言っているように思うようにしていて

他人の頑張れは挨拶と同じだ。と思うより誰かに期待されていた方がやっぱり気持ち良いからさ。

ただ、言葉を掛けてくれるということは少しでも気にかけているという事でもあり。

一言で言えば、他人の頑張れは私にも分からない。

自分が頑張れと人に声を掛ける時は、貴方なら出来るから大丈夫!って思っている。

 

頑張れと言われてプレッシャーに駆り立たされるなら普通で良いんだ!

でも、これまでより上に行くために少しでも努力しよ!それぐらいで良い!

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適度にこなさないといけない。

何事にも適材適所があるように、人間には体力という消耗品がある。

体力が減れば減る程、私達は元気もやる気も失われる。

集中力以前に脳が回らない。となってしまう訳だ。

適度に時間を区切って、休憩して、食事して、睡眠して、バランスを取らないと

消耗がきかない体にまで負担を掛けてしまうことになってしまう。

だから、一日の中で集中する時間を決める。

私みたいに一日の大半を使って、全部終わらせちゃおう!なんて考えだといずれ体に支障をきたすのは目に見えている。

 

適度って曖昧だけど、自分がこれ以上はきついと感じたら辞めればいい。

仕事で明日納期!はやらなかった自分を睨みつけるしかない。。

日常には、生活には、ある程度の余裕を含ませる。それが一番大事なのだろう。

私には無理だ。追い詰められないとやる気が、、、出ないから。

 

自分が良く自分を知っていて、でも、自分が自分を良く分かっていない。

客観的、主観的、その違いに惑わされるし、困らせられる。

その両方を完全に理解することは不可能だから。

私は分からないことは沢山聞くし、どう見えているんだろう?って良く気にしてしまう。

分からないなら理解をしようと努力すれば、今よりは良くなるはず。と考えている。

ずっと分からない事を分からないままにしてきた、私でも変われる機会が来たんだ。と理解もした。

 

適度が曖昧でも、自分の気持ちに従順になればきっときっと分かるはずだから。

やり過ぎると悪になってしまう。

誰かにおせっかいをしたとしよう。それをただ1人にすれば過度になる。

それを何人にも分散したら適度なのだろうか?

誰かに固執するから苦しむんだ。だから、振られた場合の事を考えて、何人かにアピールした方がいい。

と言う人も中には存在して、私はそんな人にはなりたくない。と思った。

それなら、ただ1人を過度に愛した方がいいし、固執したっていい。

苦しみたくないから、他を作る。

自分と他人、だから、絶対に苦しむに決まっている。

苦しまないことなんて考えているから、成功も付き合うことさえも出来ない。

分散させる意味なんて私には分からない。

半年だろうと1年だろうと想い続ける事は無価値ではないし

それが、相手にとって好きに、愛に変わる可能性だってある。

  • 今だけなのか。
  • この後も一生一緒に居たいと思うのか。

私は、一生一緒に居たいと思うから、他がどうとか知らないし、挙句の果てには相当諦めが悪い。

私と貴方の考え方が違くても。ただ、そういう人も存在するんだ。と思って欲しい。

 

例え、やり過ぎて、相手が慣れてしまっても慣れさせた自分が悪い。

それでも、ときめくこと、ドキドキさせることを諦めた訳ではないし

ましてや、慣れを吹き飛ばすぐらい、ドキドキさせればいいと考える私でもある。

その人、その人にとっての形は存在する。

騒いだって、苦しんだって、誰かに当たったって、それは愛の形かもしれない。

受け止める心かも知れない。

そう、全てはかも知れない。それは言葉すらも他人だから、共感さえも初めは他人だから。

 

透明だって、今はまだ触れられない距離だって、私と貴方の形じゃないか。

それでいい。それが良い。

まとめ

今回はやらなくても、やり過ぎても悪になってしまう。

その違いは確かにあるのに適度でないと壊れてしまう関係性も存在する。

自分を壊してしまう可能性だってある。

自分を良く理解する事もやっぱり大事で、理解をしようと思う気持ちも大事。

何事にも区切ることは大事で、超える時は思いっきり超えることも大事。

私はやらないことも、過度も悪だと思わない、でも、ダメな事は区切りをつける。

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